呪術 真人夢小説

「そんなに殺したいの?」


 女は突飛な台詞に不意を突かれ、目を丸くした。


 瓦礫が散らばり埃舞う薄汚れた倉庫。女と人類に厄災をもたらす存在、呪霊が一人。

女は目の前に居座る呪霊、真人を憎んでいる。その思想を考慮するとその台詞に行き着くのは納得できた。だが、女は不安を抱いていた。仮にも暗い激情を受け取る立場でありながら、そのような発言をすることに。そして、相手はその立場を甘んじて受け入れることはない人物だということに。

 女は、考えなしで流されれば碌なことにならないと踏んで、沈黙を貫いた。その所作も取るに足らないとでもいうように、真人が下瞼を持ち上げる。その間に応じ、女の喉元まで生温い空気が競り上がってくる。それは、女が幾度も経験して来た暗い予感によるものだった。真人は跳ねるような軽い声色で言葉を続ける。


「ちょうどここに武器になりそうなのがあるよ」


 ほら、と言って呪霊が指を刺した先に──この廃れた倉庫をかつては縁取っていたであろう──硝子の破片が落ちていた。


「私にどうしろっていうの」


 沈黙が益とならないと悟り、やむなく女は言葉を漏らす。「どうって…」真人は困惑の表情を顔に映した。それは、本心から湧いて出たものではなく、真人の自由意志によるものだった。


「君の願いを叶えるチャンスを与えてあげるってこと」

「そんなの望んでいない」


 否、女は目の前の呪霊を形成する核を散らせる手段があるならば、それを躊躇なく奮っていたであろう。女は呪術師である。だが、元から戦闘に向いている術式など持ち合わせてはいなかった。


「嘘だーだってなまえは俺を凌ぐ力を持っていたらどうしてた?ね?懐疑的になっているだけだ、俺の気を取りたいならもっと言葉は選ばなきゃ」

「…そっちに何の得があるの」

「大丈夫!これはなまえ次第だよ。それに損もない」


 真人が無造作に硝子を拾い、女に差し出す。会話は一方的に進められ、成り立っていないようだった。女は流れ行く言葉を理解の及ぶものだと認識せず、己の生命を左右すると判断した文脈のみ掻い摘み、必要最低限の言葉で返すことに努めた。それがこの呪霊と相対してきて身につけた処世術のようなものであった。

 真人は女が動かないことに痺れを切らし、自らの手で女に硝子を握らせようと手を伸ばす。しかし、女も己の理解の範疇の外にある状況に自ら進んで行くわけにもいかない。


「あはは、そうやって。自分で現状をどうにかする覚悟も、実力もないくせに」


 なまえが小さくまとまっている世界って何だろうね?

 真人が女の右手を取り、硝子を握り込ませる。


「いいよ、俺はここから動かないから」


 女は当惑した。己は何を求められてこんな行動を強いられているのか、その思惑をどうすれば裏切られるのか。ふと、真人が女の手を自らの身に引き寄せる。このままでは硝子の切先が呪霊の腹を突くのは明らかであった。

 女は異様な状況に混乱を加速させる。呪霊が甘んじて受け入れようとしている。人類の攻撃を、蹂躙を。振り解こうにも、力では呪霊に及ばなかった。ならば呪力を。しかし、女はここで呪霊の気に障わる行動を起こしてしまっては、己の生命に関わると勘繰り、攻撃のタイミングを図り損ねていた。女の混乱をよそに真人の手によって、今も尚切先は進められてゆく。女はこの状況を少しでも好機に動かすため、思考を巡らせた。しかし、実態さえ掴むことは出来なかった。

 ついに呪霊の腹へ到達した。「ほら、力を込めて」冷や汗が流れる。硝子の切先は腹に沈み、肉の壁に飲み込まれてしまった。


「あはは、呪力を込めないと削れないんじゃないっけ?」


 女の混沌とした思考の渦に、真人の柔い声が滑り落ちる。女は、静かに呪力を練り上げた。


「あー、痛い」


 「痛い」と真人が続けて言葉を溢す。それに悲壮感は伴わず、時折笑声を漏らして断続的に紡がれる。


「痛い、」


 女の肩に手が乗せられる。徐々に女の身体ごと真人に近づいていく。硝子は刃先まで腹に飲みこまれてしまった。真人の嘲笑のような生温い吐息が耳元を掠める。女は気が狂いそうだった。呪霊が耳元で温度を保つ音で、幾度も肉体の苦しみを訴えてくる。事実、この状況を生み出し、操っているのは真人なのにも関わらず、女はまるで自身がこの最悪を作り出している感覚に陥っていた。呼吸が浅くなる。

 ふと、女の指先が滑らかな壁に触れる。それは呪霊の腹であった。まさか、と女に一つの予感が巡る。呪霊は顔に歪んだ微笑を浮かべた。

 瞬間、右手が飲み込まれた。その感覚が生じた場所を見ると、はんだを付けたように女の右腕と呪霊の腹が繋がっていた。悪寒が走る。畝る。粘る温い肉の海に右手が絡み取られ、輪郭が緩やかに溶かされ、混ざり合い、そして、感覚が無くなる。


「う、あッ…!」 


 女は瞬時に悍ましさに襲われ、手を引いた。と同時に、己が混乱から生じたぼやけた遅鈍な思考に浸り、図らずも目の前の危機を受け入れていた、という事実に恐ろしさを感じていた。


「ここまで許しておいて、どうにかなる、なんて甘いんじゃない?」


 引いたと思われた手は、未だ呪霊の腹と繋がったままであった。女は分からなかった。この先どうなるのか、どう反応すればよかったのか、どこから間違っていたのか。

 生温い流体が恒久的に蠢き続ける。爪と指の間に吸い付き、皺と皺の間を指先から、水かきの間まで肉がひしめき合い、まるで右手を余すことなく舐られているような気分になり、女は吐き気を催した。女は悲惨な状況に打ちひしがれながら、少なくとも正解を選べていないということだけは確信していた。漸く女は決断する。打破、しなければ。

 足裏を床に押し付け体を固定する。息を吸う。女は全身の呪力の通り道を脳内にイメージし、丹田に力を入れ、呪力を循環させる。右手に続く道を開き、呪力を集結させ、そして息を吐く。放つ。

 ぼっ、と炎を焚き付けたような音が響いた。女の呪力が右手から外に放出されて、真人の腹を抉っていた。女の右手は薄暗く緩慢な肉壁から解放され、真人は腹に拳一つ分の歪な暗がりをこさえていた。呪霊の腹の中に臓物は詰まっておらず、抉られ、ぐずついた肉の縁にガラスが鎮座しているだけだった。

 「あー」真人の口から間延びした声が漏らされた。女は真意を汲めず、臨戦体制を取りながら焦燥を滲まる。


「痛ったいね、流石に」


 でもこんなもんか、と真人が軽く呟くと自分の腹の穴に手を運び、悠然とガラスを取り除いた。次いで、なんともなしに穴は周りの肉と混ざり合い、全く綺麗に元通りになってしまった。呪霊の指につままれている硝子は、寂れたトタン屋根の穴から注がれる陽の光を浴び、煌々と輝いている。その縁には、血が滲んでいた。


「勿体無い。やれることは少なくなかったはずなのに、何がなまえの思考を鈍らせてるの?俺の手から逃れたいんでしょ。自由が欲しいんだよね。外に…」


 真人は目を細めながら、倉庫に白白と漏れる外光に目を向けた。女はもう抵抗する気も起きなかった。

 不意に真人の手から硝子が投げ出される。それは光を反射し、閃光を放った。忙しなく強烈な音が耳を劈くと、瞬間、それは不規則に床の上で散っていた。女は、力尽きたように破片を見つめる。


「次は、殺せるといいね」


 頭上から声が降る。散り散りになった破片は、目下声を放った者を表してはくれず、ただただ、憔悴しきった女を一人、映し出すだけだった。